放送法 1950年に関する質問

放送法 1950年 NHKの受信料

あれって何故大きな顔して徴収にくるのでしょうか?法律で決まっている?だとするとその(法の)根拠は?全く見ていないのに

  NHKの受信料の詳細


放送法 1950年 NHKは「国営放送」?

テレビを観ていての素朴な疑問。民放のバラエティー番組などで、NHKのことを、「某国営放送」と言ったりしますが、本気で「NHKは国営放送」と思っているのか、それとも何か意図してそういう表現をしているのか、非常に

  NHKは「国営放送」?の詳細


放送法 1950年 NHKに国家予算を使っている理由は何?

放送法37条により国会で予算承認が必要なのは知ってます。比率は少ないのでしょうが、国の予算23億円を使っていることも知ってます。疑問なのは、何故NHKだけが国会で予算承認が必要なのでしょうか?なぜ国の

  NHKに国家予算を使っている理由は何?の詳細


放送法 1950年 冤罪事件について

学校の講義で[冤罪事件]についてのレポートが出されたのですが、図書館に行ってもなかなかわかりやすい書籍がなく、困っています。冤罪事件についてと、近年起こった冤罪について知っている方は情報を提供してください。

  冤罪事件についての詳細


放送法 1950年 ☆無線について☆

専門の方およびご存知の方いらっしゃったらぜひ教えてください。先日ダイハード4.0(Live Free or Die Hard)というブルース・ウィリス主演の映画が公開されましたが、その中でワーロックという太った凄腕ハッカーの家での敵とのやりとりがありました。その際

  ☆無線について☆の詳細


放送法 1950年に関するニュース


ドラマ:水谷豊、外科医に 来月5日、テレビ朝日「神の手」須磨医師役
毎日新聞
須磨医師は1950年、兵庫県生まれの心臓外科医。86年に世界初の胃大網動脈を移植する心臓バイパス手術を成功させた。胸部と腹部を同時に手術する難しい手術法だったが、“神の手”といわれるテクニックと超人的な集中力で新しい領域を開拓。その後、心臓外科医として ...

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何が常識だったのか―65年前の夏(平山基生)
レイバーネット日本
ここで、一言しておかなければならないことは、現在の「自衛 隊・防衛省」なるものが、米占領軍の指令で創設された警察予 備隊(1950年8月10日)の流れをくむ、米世界戦略の1部隊であ り、日本の独立を妨げる役割こそ持っていても、日本の独立を 守る「自衛力」では ...

放送法 1950年旅行記

バーゼル・・SUVAハウスなどあちこち・・(by mincoさん)

放送法 1950年
SUVAハウス(1993年)今までの建物にガラスで覆った部分と増築された集合住宅・オフィス。
いやぁ・・こんな風に既存の建物を利用してかっこよくしてしまうなんて・・すごい。

ヘルツォーク&ド・ムーロン(Herzog & de Meuron、略称HdeM)はスイス出身の建築家。スイスのバーゼル出身のジャック・ヘルツォーク(Jacques Herzog、1950年4月19日 - )とピエール・ド・ムーロン(Pierre de Meuron、1950年5月8日 - )の2人からなるユニットです。
有名な作品としては、東京・プラダ青山店やバルセロナ・フォーラム、ミュンヘンのサッカー場アリアンツ・アレナ、そして北京オリンピックメインスタジアムの鳥の巣などがあります。

ブログでも紹介しています。
  • http://viaggiare.blog.so-net.ne.jp/2004-09-20

  • http://viaggiare.blog.so-net.ne.jp/2009-08-31

  • 【旅行時期】2009/04/10~2009/04/19
    【エリア】バーゼル
    【テーマ】
    【投稿者】minco

    金沢の秋【01】フランス政府招待社会人留学生(ブルシエ・テクニック)同窓会(by ソフィさん)

    放送法 1950年

    2009年10月31日(土)

    金沢は、私の少年時代・青年時代を育んでくれた、心のふるさとである。

    何時やって来ても、思い出は尽きない。

    離れたのは昭和25年(1950年)だが、70歳を過ぎてから訪問する機会が増えつつある。

    今年も今日が二回目で、また来週能登に来ることになっている。


    今日金沢を訪問する動機は、フランス政府招待社会人留学生の同窓会のためである。

    フランス政府はODA(政府開発援助)の一環として、日本の社会人を毎年招待してくれた。

    私が志願し、試験に合格したのは昭和35年(1960年)のことであり、翌昭和31年から32年にかけて、フランスに一年間滞在した。


    滞在を通じて習ったことは無数にあるが、とりわけ大きかったと感じる事柄は、二つある。

    その一は「揺るぎのない自分の意見を持つこと」、もう一つは「古今東西をみる大局観を持ち育て続けること」だった。

    これは留学経験者のほぼ全員がそう思っていることであり、集まるごとに話題となる点である。


    同窓会は、金沢城の見学から始まった。

    北国の秋を惜しむ好天の午後1時、石川門のわきにある観光事務所前に集合したわれわれは、再会を喜び合う。


    関連の写真は、「ソフィさんの旅行記」

  • http://4travel.jp/traveler/katase/


  • をご覧ください。


    【旅行時期】2009/10/31~2009/10/31
    【エリア】金沢市内
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ソフィ

    日本の旅 関西を歩く 京都府舞鶴、岸壁の母の引揚桟橋周辺(by さすらいおじさんさん)

    放送法 1950年
    岸壁の母(がんぺきのはは)は第二次世界大戦後、旧ソ連に抑留された息子・新二さんが開放され、引揚船で帰ってくるのを東京都大森に居住しながら1950年1月の引揚船初入港から6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立った端野いせ(はしの いせ1899-1981年)さんの通称だ。端野いせさんをモデルにした「岸壁の母」は歌や映画にもなったが1944年に中国牡丹江で行方不明になった新二さんの死亡理由認定書が1954年に厚生省から発行された。
    (歌詞)母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た とどかぬ願いと 知りながら
    もしやもしやに もしやもしやに ひかされて

    (台詞)また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない、この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか、港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ、帰れないなら大きな声で、お願いせめて、せめて一言。

    (歌詞)呼んで下さい おがみます あゝおっ母さん よく来たと 海山千里と 云うけれど
    何で遠かろ 何で遠かろ 母と子に

    (台詞)あれから十年あの子はどうしているじゃろう。雪と風のシベリアは寒いじゃろうつらかったじゃろうといのちの限り抱きしめてこの肌で温めてやりたいその日の来るまで死にはせん。
    いつまでも待っている。

    (歌詞)悲願十年 この祈り 神様だけが 知っている 流れる雲より 風よりも つらいさだめの つらいさだめの 杖ひとつ

    (台詞)ああ風よ、心あらば伝えてよ。愛し子待ちて今日も又 怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を。

    母の息子への深い愛情とせつなさをひしひしと感じる名曲なのだが、端野いせさんは息子を案じながら1981年に亡くなった。ところが2000年に端野新二(1926年- )さんが中国で生存していたことがわかった。新二さんは終戦前にソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され、満州に移された後は中国共産党・八路軍に従軍した。中華人民共和国の成立後は上海でレントゲン技師として暮らし、家族ももうけていた。新二さんは日本で母親のいせさんが自分の帰りを待っていたことは知っていたが、自身の生存を知らせることも帰国することもしなかった。その理由について新二さんと面会した「引揚を記念する舞鶴全国友の会」のメンバーに「母が舞鶴で待っていることは人づてに聞いて知っていたが帰れなかった。死んだことになっている自分が帰れば、歌にまでなり有名になっている母のイメージをすべて壊すことになる。今更帰れなかった」と語ったそうだ。新二さんを知る人の話では実際の理由はソ連軍一斉攻撃の際、牡丹江の陣地を無断で離れたことに後ろめたさがあったのだろうという。また新二さんは端野いせさんの実子でなく函館の資産家・橋本家から貰った養子だったことから、母への愛情をいせさんほどには感じていなかったのだろう、などさまざまな推測や憶測が流れているが真実は不明だ。息子の帰国を待ち続けたいせさんは気の毒だが、胸を張って日本に帰れなかった新二さんも戦争犠牲者の一人だろう。
    (写真は平引揚桟橋の光景)


    【旅行時期】2009/04/13~2009/04/13
    【エリア】舞鶴
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】さすらいおじさん

    日本の旅 東北・中部地方を歩く JR糸魚川駅周辺(by さすらいおじさんさん)

    放送法 1950年
    新潟県糸魚川市(いといがわし)は、親不知、ヒスイの産地とともに日本の東北日本と西南日本の境目とされる中央地溝帯(糸魚川静岡構造線/フォッサマグナ)が通っていることで知られている。
    私が糸魚川市に興味を持ったのは相馬御風(そうま ぎょふう1883-1950年)の出身地であることだった。
    相馬御風は歌人・詩人・自然主義評論家・良寛(1758-1831年)研究家として知られる。だが、日本で広く知られるのは「春よこい」「かたつむり」「カチューシャの唄」などの童謡・唱歌、早稲田大学校歌「都の西北」などの作詞者であることだろう。
    4月10日は相馬御風記念館前の桜並木が満開で天津神社ではけんかまつりの準備をしていた。
    (写真は相馬御風記念館前の桜並木の光景)

    【旅行時期】2009/04/10~2009/04/10
    【エリア】糸魚川
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】さすらいおじさん

    南仏プロヴァンスに憧れて【01】旅の極意は人情を楽しむことか(by ソフィさん)

    放送法 1950年

    2009年6月23日(火)

    「ゆったりと、心豊かな旅をしたい」

    そう願っていたら、「ちょうど良いものがありますよ」と勧めてくれたのが、このツァーだった。

    題して「フランスの美しい村を訪ねるケルシー地方からプロヴァンス地方への旅」

    「ワールド航空サービス社」の、企画である。


    二十歳代までの私は、無銭徒歩旅行に憧れていた。

    今でいえば、バックパッキングだろうか。

    僅かに時間と金のゆとりができた1949年(昭和24年)から翌50年(昭和25年)にかけて、二年がかりで能登半島一周を試みた。


    足元は一番経済的だった朴歯の下駄、それでも足が痛くなった時の予備のためにと、ヤミ市から400円も出して買ってきた大切な宝物の運動靴を、リュックに入れている。

    この運動靴は質が悪いため、底が直ぐに擦り減ってダメになり、悲しかった。

    ゴムの統制が無くなって、チャンとした材料を使った運動靴が靴屋に出てきたのは、1950年(昭和25年)春、統制開始1938年(昭和13年)から12年ぶりだった。

    窮屈な靴に起因する外反母趾は、今に及んでいる。


    陸地測量部の5万分の1地図を片手に、見ず知らずの土地に夢を描き、温かい人情に浸りながら、部落をひとつずつ渡り過ぎて行く。

    財布には、貯金で蓄えたなけなしの金、500円しか入っていない。


    お腹がすいたら道端の畑でイモ掘りを手伝って、手間賃代わりに二三本もらう。

    食事のために農家の軒先を借りたら、自慢の自家製お新香サービスに預かった。

    時にはコンカニシン(小糠鰊)だったりして、こぬか味噌にわいたウジの生命力を愛でながらの御馳走だった。

    こんな体験が、私を旅好きにした、原点のように思っている。


    旅の基本パターンは、30歳代は鉄道旅行となり、40歳ころからドライブに変化した。

    そして70歳を超えたころから、ツァーを愛用するようになっている。


    ツァー旅行の欠点は自由を拘束される点だが、予定を立てる段階から交通機関やホテルの予約まで、すべてコンダクター任せの気楽さは、一度味わったら止められなくなる魅力がある。


    【旅行時期】2009/06/23~2009/06/23
    【エリア】フランス
    【テーマ】ハイキング・登山
    【投稿者】ソフィ